「やりたいことをやる人」と「やるべきことをやってくれる人」

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R25youtube番組、「仕事がデキる人とは?」の対談で、

 

北の達人の社長・木下さんが、「会社という組織の中で仕事をしようとすると、人間心理的に各々「やりたいこと」「やれること」をやろうとする。

そうすると、必ず「やりたいこと」「やれること」の後に、「やりたいこと」「やれること」を実現するために必要な「やるべきこと」が残る。

 

しかし大抵の人は、「やりたいこと」「やれること」に夢中で、手を付けないので、「やるべき仕事」は残ってしまう。それをやってくれる人が、仕事が出来る人」

 

とおっしゃっていたのを、

 

成田さんが、「やるべきことだけやっている人は、評価されにくいイメージ」があると、指摘してくれて、よく言ってくれた、ありがとうってなった。

 

そうなんだよ。

そういう人って、どうしても「やりたいことをやっている人」の影に隠れてしまう。

でも皆が見てみぬふりをしてきた「やるべきこと」を膨大にこなさないとダメだから、「やるべきこと」に追われて、

そうしている間に「やりたいことをやっている人」が仕事の成果を形にして、その人だけ評価される。

「やりたいこと」「やれること」の後に残る、「やるべきこと」は形として見えないものが多いので、表立って評価されることは少ない。

 

私は典型的なやりたい人たちがやらなかった、やるべきことをやる仕事をやってきた人。社会人になって10年間、そうだった。

 

そして、会社という組織で評価されない、報われなさを感じて、やっぱり自分のやりたいことをやろう、自分やりたいことのために100%の時間を使おうと、歩だそうとしている。

 

会社として、そういう人を評価してくれる姿勢がある、

僕は一人で企業したので、そこの重要性が分かる、と木下さんは言っていて、それが本当なら素晴らしいけれども、

(ひねくれ人間なので、自分のやりたいことを実現するために駒となって働いてくれる都合の良い人を、集めようとしているのかな?と、思っちゃった)

 

マネジメント層がそのことを分かっておらず、「やるべきこと」に目を向けてくれる社員を蔑ろにしている企業は多いんじゃないのかな?

 

事務職とか「やるべきこと」を切り出して、携わる人が納得してその仕事に従事している場合は良しとして、

「やるべきこと」を誰もやらないから、やってくれていて、有耶無耶にされている人も多い気がする。

 

成田さんが「評価されないこと多い」と言えたのは、自分が「やるべきこと」も含めてやっていたから、ありがたみと評価されない虚しさを理解できるのではないのかな?

 

どの組織も、いや社会が、「やるべきこと」をやってくれる人を評価、感謝してくれる環境にあると良いな。

 

また、そうでない環境にいて、他人の「やるべきこと」をやっているあまりに、自分の「やりたいこと」が出来ないのであれば、出来る場所を模索しても良いと思う。

(「やるべきこと」をやっている分の対価が得られているなら良いけど、そうでないなら)

 

上記を踏まえて、この点から考える仕事ができる人は、「やりたいこと」と「やれること」と「やるべきこと」の3つを自分で完結して出来る人じゃないだろうか?

もしくはちゃんと全容を把握して、「やるべきこと」を他者に任せるのであれば、対応者に対してそれ相応の評価と対価を払える人。

 

この件がもやるのは、

「やりたいこと」「やれること」で評価された人がマネジメント層になると、「やるべきこと」の重要性を無視したまま組織を作って、

「やるべきこと」をやってくれる人を蔑ろにして、「やりたいこと」「やれること」のアウトプットだけで評価をしていること、

 

また「やるべきこと」の存在を分かっているものの、対応者の善意に甘えて、適切な評価や、その人の負荷を考えずに、任せてしまっているようなケースが多いと思うからだ。

 

皆が平等にやるべきことができますように。

もしくは、やるべきことをやったことに対して、正当な対価が得られますように。

 

 

コロナ、家庭内感染防衛に失敗した話。

コロナ、もう誰がいつなっても、全く不思議ではない状況になってきましたね。

 

私もなりに怖がり、なりに神経質に感染対策もしてきましたが、

とうとう先日、3歳の娘が保育園で新型コロナウイルスをもらってきました。

 

娘が発症(高熱を出した)段階で、マスクやアルコールの徹底、食事をバラバラに取るなどの対策をしましたが、

 

9/11に娘が発症後、娘が発症した3日後9/14に私と旦那、娘が発症した7日後の9/19に小2の息子が発症してしまい、結局、家庭内感染を防ぐことが出来ませんでした。

 

家庭内感染に失敗をしてしまったことは大変悲しいかったのですが、本当に精一杯やった上でそうなってしまったので、今は仕方がなかったと思うようにしております。

 

ただ、家庭内感染に失敗をしてしまった理由を自分なりに考える中で、どうしても家庭内感染を防ぎたいご家庭にとって、我が家の失敗談は参考にして頂ける部分あるのでは?と思いました。

また私自身、ここ数日の格闘は中々ない経験で、これを文章に残しておきたいと気持ちが起きまして、ここに記載することにしました。

 

まず、一つ言えるのは、コロナの感染力、本当、やばい、ということです。

別の風邪であったら、私がやった対策でも家庭内で蔓延しなかったと思うのですが、本当にコロナは別枠で考えた方が良いのだということを改めて思い知らせました。

 

失敗談なので、お恥ずかしい部分もあるのですが、我が家と同じように、保育園児のお子様がいるご家庭の方には参考にして頂ける部分があるのでは?とも思っております。

 

我が家の環境

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3LDKのマンションです。

一部屋はリビングに併設されている部屋なので、実質ドアがついている部屋は2つです。

もちろん、お風呂とトイレは一つです。

生活空間、分けること大変に厳しかったです。。。

 

失敗理由

娘がマスクがつけることが出来ないにも関わらず、生活空間を分けなかったこと

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家庭にコロナを持ち込んだのが保育園・幼稚園児など未就学児であるという点で、

感染者がマスクをつけること、感染者を一つの部屋など限られた空間で過ごさせるようにすることが格段に難しくなるので、

家庭内感染の防衛難易度MAXになるのではないでしょうか。。。

 

厚労省の家庭内感染への対策は以下になっています。

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この中の複数の項目が、感染者が未就学児という点で厳しくなります。

 

我が家は最初から、「娘の隔離」と「娘がマスクをすること」を諦めました。

まず、この2点を諦めてしまっては、他の点にどんなに気をつけても家庭内感染を防ぐことは厳しかったのではないかと、今は思っています。

 

家庭内感染を成功させた方の事例を幾つか拝見したのですが、

感染者も同居の家族も両方がマスクをしていること、且つ、マスクをしながらも会話を極力控えるなど、触れ合いを減らすことで感染を防げた、という事例がありました。

 

我が家は感染者である娘以外は、マスクをすることを徹底し、マスクを外す食事や歯磨きの際には、会話をしない、2メートル以上離れることは徹底していました。

もちろん、入浴中や就寝児も娘以外はマスクをつけていました。

就寝は感染者である娘と私は同室でしたが、夫と息子は別室でした。

 

ドアノブやテーブルなど全員が触れる場所は満タンだったアルコールボトルが2日でなくなるレベルで消毒をしました。

 

それでも全員、感染をしてしまったということは、娘がマスクしてないことによる空気中に漂ったウイルスや、アルコールが出来ないうちに娘が触れたものに触れってしまったりしたことで、感染してしまったのだと思います。

 

感染力が強い期間にコロナ患者と接すると、一瞬の隙で感染をしてしまうのだと実感しました。

 

失敗理由から考えられる有効な対策

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保育園児である娘の隔離は無理として、他の感染していない家族を隔離状態にすることで、感染を防げたのではなかったかと思っています。

娘がマスクが出来ない以上、どうしても空気感染や手指についたウイルスから感染をしてしまうことは免れられません。

少しだけマスクを外してその空間にいた、うっかり感染者が触れたものに触れた手を自分の顔に持っていってしまった、もうそんな一瞬の隙で感染をしてしまうので、

 

やはり感染者自身が未就学児など人に移さないような行動を徹底できない状態にあるのであれば、感染している人と、感染させたくない人で、生活空間を別にするしかないのだと思います。

 

例えば、夫と小2の息子は特定の部屋から出ないようにし、そこに娘の看病をする私が食事を運ぶ、などの対応をすれば私は感染をしても2人の感染は防げる可能性は高かったのではと思っています。

(ただ、我が家の場合、夫も私も仕事を休むことが出来ず、看病・育児・仕事・家事を夫婦2人で分担しなければ回らなかったので、我が家では上記対応は厳しかったと思います。しかし、家庭内感染を防ぎたいのであれば、そうしなければいけなかったと思います。)

 

厚労省の対策にも、「感染者の世話をする人は、できるだけ限られた方(一人が望ましい)にする」という記載がありますが、

 

それは感染者と接して、看病などする人は、どんなに気をつけても、もうほぼ感染するよね、ということなのだと思います。

 

なので、感染者と徹底的に接しないことしか、感染を防ぐ道はないのだと思います。

 

私が甘かったのだと思いますが、こんなに感染者がいても今まで罹ってないのだから、マスクと消毒を徹底すれば、感染者を隔離までしなくても罹らないのだろう、とどこかで思っていた自分がいたのです。

でもそれは無理だ、ということが今回で本当に分かりました。

 

ちなみに娘が発症する前日に、夫と子供2人で、義両親の家に遊びに行ってまして、義両親はマスクを外して会話をする場面も多々あったとのことで、高齢の義両親を感染させてしまったのではないかと、肝が冷えたのですが、大丈夫でした。

 

なので、発症してから7日間程度の期間が、一瞬でもマスクを外して会話してしまうとすぐに感染してしまうレベルで、感染力が強いのかと思います。

 

ただ、我が家のことは一例で、もしかしたら我が家と同じようにしていても発症せずに過ごされたご家族もあるのではないかとも思います。

 

というのも、今回、家族全員が感染をしましたが、一人として同じ症状の人がなく、皆バラバラの症状でした。

それがコロナの恐ろしく厄介なところで、本当に人それぞれ、あらゆる事例があるのだと思います。

なのでここに書いたことは決して答えではなく、一家庭の一反省としてご参考にして頂けると助かります。

 

感染をする前に色々情報を集めて脳内でシュミレーションをしてましたが、実際に感染をしてみると、事前の情報では対処しきれない、なってみて分かることがたくさんありました。

 

我が家は息子が連休中になったことから、最寄りの発熱外来がやっておらず、医療機関に罹ることに苦戦しました。

また一家全員、外出ができないとなると、いくらネットスーパーがある世の中とはいえ、必要なものを手に入れるのに、不便な思いをしました。

 

上記のような感染をし、生活をする中で困ったことや、役に立ったことなどについても書きたいと思います。

 

ちなみに症状ですが、私は微熱のみで本当に風邪症状で終わりました。

夫は38度台の熱が3日程続いていて、今も咳がかなり苦しそうです。

娘、息子は1日目に高熱を出し、2日目の午後から急に下がり、3日目には平熱になりました。

ただ、短期間ではありましたが、息子は40度を超える熱を出し、解熱剤もあまり効かず、本当に怖かったです。

運良く1日で解熱が出来ましたが、これが数日続いたと思うのと、体力のない乳児やお年寄りにとっては命に関わる病気になり得ることは容易に想像出来ました。

 

娘の事例から考えて、発症してからの感染力が高いのだと推察します。

なのでが体調の悪い時は、会食など感染を広げる行動を控えるなどの基本的な対策を一人一人が取ることで、感染拡大を防ぐ一端にもなるのでは、と思いました。

 

一日も早い、新型コロナウイルスの収束を心より望みます。

 

 

 

 

 

自分の原点にしたい作品、「すいか」について

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たまに、ふと頭に疑問が浮かぶ。

自分が一番、好きなテレビドラマって何だろう?

 

今まで浴びるように観た、たくさんの作品の印象に残ったシーンが頭をよぎる。

 

橋部敦子さんの「僕らは奇跡でできている」「遅咲きのひまわり」「モコミ」、橋部さんの作品は鉄板で好きだ!

また、幼い私が脚本家になりたい、との思いを心に沸かすきっかけになった北川さんの「愛していると言ってくれ」や「ロンバケ」、

近年だと、渡部あやさんの「今ここにある危機とぼくの好感度について」、素晴らしかった!

 

今まで観てきた数々のドラマのインパクトあるシーンが脳内に巡って、巡った後に、

「やっぱり、『すいか』だな」って思う。

 

「すいか」はシナリオブックも持っている。たまにパラパラとめくる。

最終話、主人公の基子に馬場チャンが、基子の下宿で観た、小皿にのった梅干しの種の話をする時のセリフを読む。何度読んでも、うるっとする。

 

色んなことがあって、30歳半ばの私の心の周りには、たくさんの余分な贅肉がついている。

 

それは私のほっそい筋肉の周りにつく頑固な脂肪のようだ。

年々、運動をしても中々脂肪が落ちくなったように、心の周りの「余分」も、私が何か大切なことを思い出そうとすると、口々に「だってさ」と、言い訳を始める。

 

「人に優しくを心情にしていたら、舐められまくって、いつも良いように使われてるじゃん、相手を力で押さえつけるくらいの度量が無いと駄目だよ」

「結局は、自己責任なんだよ。自分の知識不足で、騙される奴が悪い」

 

「思いやり」「弱いものいじめはしない」「人を陥れてまで、自分がのし上がらない」

自分が心の支えにしてきたものが、弱肉強食なこの世界に立たされて、揺らぐような気持ちになる。

 

前は硬い大地に根深く根ざしていた小さな木が、根っこごと引っこ抜かれて、ぬかるんだ不安定な土地に植え替えられたような感覚だ。

 

そういう時、「すいか」を観ると、「あんた何言うてんの!あんたが元々大事にしていたものを大事にして良いんやで!」

と、分厚い手で背中をバチンと叩かれたような気持ちになる。

 

何なんだろう。見返す度に、

 

都会で、ギラギラバチバチしたものに触れた若者が、お盆に田舎に帰って、ただただ、甘やかしくれるお婆ちゃんに癒される、みたいな癒しを得られる。

 

「すいか」には、いわゆる「インパクトのある」「ついつい引き込まれてしまう」というような映像シーンはないかと思う。

 

それは、木皿さん自身が、シナリオブックのアト書で、語っているように「こうすれば映像作品として面白くなる!」というような色んな定説を無視しまくって書いているからだろう。

 

だから正直、疲れている時に見ると、ウトウトしちゃうようなシーンも出てくる。

 

海外ドラマのように、終始ハラハラドキドキ、感情を揺さぶられ、ついつい続きが気になって、明日も仕事で朝早いのに、夜中まで観てしまう、ということはないと思う。

 

でも、逆に、3話と4話を観る期間が、数ヶ月あいても、ふと続きが観たくなり、

また間が空いて続きから観ても、許される、みたいな空気感がある。

 

良い意味で一生懸命、観なくても良いのだ。

でも、何度も、ダラダラとずっと観ていたいのだ。

 

それが放送当時に視聴率に繋がらなかった理由でもあるかもしれないが、

放送から10年以上だった今でも、ずっと愛される作品である理由でもある気がする。

 

私が「すいか」を観たのは、放送から何年も経った後だ。

その評判をネットで知り、Huluで観た。

大好きになり、シナリオブックを購入し、Blu-layがあることも知れたので、購入した。

 

「すいか」はきっと、配信される限り、私のようなファンをコロコロコロコロとつけていくだろう。

 

それは、ネットニュースになるような、爆発的大ヒット、では無いかもしれないが、

 

フンコロガシが一生懸命、時間をかけて手に持つ糞を丸く大きくするように、

この世の人の目に触れる場所にある限り、地道にファンの数を増やしていく。

 

数年前から、自分でも脚本を書いている。

自分が描きたいことは確かにあったはずなのに、それを描こうとすると、たくさんの「ちょっと待った!その考えは甘いんじゃ無いの!?」というような声が聞こえてくる。

 

そんな時、「すいか」に触れると、自分が本質的に描きたいものの原点に振り返れるような気がする。

 

ここ最近、シナリオコンクール用の脚本を悶々としながら練り練りしており、

そんな時にまた「すいか」のシナリオブックを読み直し、ウルルとして、

 

更に冒頭にURLを貼り付けた、河野プロデューサーのインタビュー記事も読むことが出来たので、「すいか」への思いをまとめてみた。

 

穏やかな作風の「すいか」の制作がこれほど大変だったとは。

河野プロデューサー、本当にお疲れ様でした。

そして、「すいか」をこの世に産み落として下さり、本当にありがとうございます。

 

河野プロデューサーがインタビューの最後に、「『すいか』は戻るべき場所で、教科書みたいなものですね」と述べられていますが、

 

すいかのファンの皆にとっても、すいかは戻るべき場所、心の拠り所になっていると思います。

 

はてなブログは、普段、「公開しない」設定にして、自分の本心をツラツラと語る場にしているのですが、

 

公開することで、「すいか」愛する人「すいか」の制作に携わった方への感謝の気持ちが伝われば、という淡い気持ちを持って、公開にしてみました。

 

駄文、且つ長文で、大変失礼ですが、

私は死ぬまで、「すいか」が好きで、生きる支えとなっている、という気持ちをここに残せたらと思います。

「ハピネス三茶」、住みたいですね!